塩と神輿の町「行徳」
戦国時代には江戸湾岸における最大の塩の産地になっていた行徳ですが、これが更に発展して東国第一の「行徳塩業」としての特色を発揮するようになったのは、徳川家康が行徳を幕府直属の天領とし、「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」といって、塩業を保護、奨励したためです。
寛永九年(1632)には塩を運ぶための水路、小名木川、新川が整備され、途中江戸川、中川、隅田川を通り江戸城内と本行徳は、直接船で結ばれることになりました。
本行徳村はこの航路の独占権を得て、船着場が作られ「行徳船」「長渡船」が就航するようになり、塩だけでなく人や物資の運搬も盛んになりました。
文化・文政のころからは、江戸で成田山詣でが流行し、行徳は船場、宿場として活況を呈しました。
「行徳千軒寺百軒」と言われるほど寺や神社が多い地域で、腕利きの仏師や宮大工の他に建具職人が集まるようになり、やがてその技術を生かした地場産業として神輿の製作が始まります。
行徳で制作された神輿は、神輿総数の約8割ともいわれており、最盛期の昭和30年頃には、
行徳の1軒の神輿やで年間約43基もの神輿を製作した記録が残されています。